恋姬无双 出了完全汉化包吗?
完全汉化版现在两作都没有,《恋姬无双》倒是有部分汉化版的,《真恋》也正在紧张汉化中,不过两边的汉化组都没放出完美汉化补丁……
全CG和完美档倒是到处都有,如果要的话我可以发给你,不过本体没汉化的话就只能看CG了……
如果已经有游戏本体了那就等汉化补丁的发出吧,《恋》的汉化组在星空论坛,《真恋》的在沐风论坛,可以多关注下
保守估计要到暑假去了!
恋姬无双汉化补丁
1.解压后把lcsebody1.han备份,然后把原lcsebody1.han文件夹里面所有文件删除,形成空文件夹lcsebody1.han 2.把空文件夹拉进Lcs_Han.exe里 3.把备份的lcsebody1.han拉进Lcs_Han.exe运行, 4.启动游戏运行文件Lcsebody.exe PS:记得解压后把这三个东东放进游戏目录里,跟游戏文件一起再进行操作,确保汉化文件运行 Microsoft .NET Framework V2.0要记得安装
切记,以上的一定都要在游戏目录下进行(把文件夹拖进去时)
用日语介绍诸葛孔明
诸葛 亮(しょかつ りょう、ピンイン: Zhūge Liàng, 181年 - 234年)は、中国后汉末期から三国时代の蜀汉の政治家・武将・军略家・発明家。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉诸葛豊の子孙。泰山郡丞诸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀汉の建国者である刘备の创业を助け、その子の刘禅の丞相としてよく补佐した。伏龙、卧龙とも呼ばれる。今も成都には诸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が访れている。
妻は黄夫人。子は蜀汉に仕え绵竹(成都付近)で戦死した诸葛瞻。孙には同じく蜀汉に仕え父と共に绵竹で戦死した诸葛尚や、西晋の江州刺史になった诸葛京がいる。亲族として従父(叔父)の豫章太守诸葛玄、兄で呉に仕えた诸葛瑾とその息子の诸葛恪、弟で同じく蜀汉に仕えた诸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた诸葛诞・诸葛绪・诸葛璋・诸葛虔・诸葛原(景春)らがいる。なお、诸葛八卦村という村の住民は诸葛亮の子孙と言われている。
略伝
[编集] 书生时代
琅邪郡阳都(现在の山东省临沂市沂南県)が本贯だが出生地は不明。身长は8尺(后汉の顷の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の顷の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前汉元帝の时の司隷校尉の诸葛豊で、父は诸葛珪。泰山郡の丞(郡の副长官)を勤めた人だが、诸葛亮が幼い时に死去している。生母の章氏も同様に幼い时に死去していたが、父は后に后妻の宋氏を娶っている。年の离れた兄には呉に仕えた诸葛瑾、弟には同じく蜀汉に仕えた诸葛均、他に妹がいる。后汉の献帝と同年の生まれである。
まだ幼い顷、徐州から弟の诸葛均と共に従父の诸葛玄に连れられ南方へ移住する。この时の行き先について『三国志』本伝では、従父・诸葛玄は袁术の命令を受けて豫章太守に任命されるが、后汉の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その后刘表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周术が病死したので刘表が代わりに诸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は刘繇の力を借りて诸葛玄を追い出し、诸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民众の反乱に遭って杀され、首を刘繇に送られたとなっている。
その后诸葛亮は荆州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。この时期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当时の人间でこれを认める者はいなかった。ただ亲友の崔州平や徐庶だけがそれを认めていたという。 また、この时期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄阳记』に见える话で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて丑いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い诸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁选びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を进んで选ぶことを孔明の嫁选びと呼ぶようになった。
[编集] 三顾の礼
この顷华北では、200年に曹操が袁绍を打ち破って覇権を手中にし、南进の机会を窥っていた。一方刘备は袁绍の阵営を离れた后、曹操に追い散らされて刘表を頼り、荆州北部・新野(河南省南阳市新野県)に居城を贳っていた。荆州では、北の曹操の强大化によってこれまで平和であった荆州も危険になるのではないかと话し合われていたが、高齢の刘表は病気がちな上、长男・刘琦と次男の刘琮との间で激しい后継者争いが起こって、有志たちの失望を买っていた。
诸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が刘备の下に出入りして、诸葛亮のことを刘备に话した。人材を求める刘备は徐庶に诸葛亮を连れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「诸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、刘备は3度诸葛亮の家に足を运び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顾の礼」である。 裴松之の注によると、『襄阳记』には、刘备が人物鉴定家として有名な司马徽を访ね、司马徽は「时势を识るは俊杰にあり」として「卧龙」と「凤雏」、すなわち诸葛亮と庞统とを荐めたという话が载る。また『魏略』には、诸葛亮の方から刘备を访ねたという话が载っていたという。その后に裴松之自身の案语として、「『出师表』には明らかに刘备が诸葛亮を访ねたと书いてある。それなのにこんな异说を立てるとは、実にわけの分らぬ话である」とある。
この时、诸葛亮は刘备に対していわゆる「天下三分の计」を披露し、曹操・孙権と当たることを避けてまず荆州・益州を领有し、その后に天下を争うべきだと勧めた。これを闻いた刘备は诸葛亮の见识に惚れ込み、诸葛亮は刘备に仕えることを承诺した。これを孔明の出庐と呼ぶ。
[编集] 赤壁の戦い
208年、刘表阵営では刘琮が后継となることがほとんど决定的となり、刘琦は命すら危ぶまれていた。刘琦は自らの命を救う策を诸葛亮に闻こうとしていたが、诸葛亮の方では刘表一家の内轮もめに刘备共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで刘琦は一计を案じて高楼の上に诸葛亮を连れ出し、登った后ではしごを取り外して、诸葛亮に助言を求めた。
観念した诸葛亮は春秋时代の晋の文公の故事を引いて、刘琦に外に出て身の安全を図るよう荐めた。刘琦はこれに従い、その顷ちょうど江夏(现在の湖北省武昌)太守の黄祖が孙権に杀されており、空いていたこの地に赴任する事にした。刘琦の兵力は后に刘备たちが曹操に追い散らされたときに贵重な援军となった。
同年、刘表が死去。その后を予定通り刘琮が継ぐ。诸葛亮は刘备に荆州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、刘备はこれに难色を示す。まもなく曹操が南下を开始すると、刘琮はすぐさま降伏した。刘备は手势を连れて夏口へ逃れた。
孙権阵営は情势観察のために鲁粛を派遣してきていた。诸葛亮は鲁粛と共に孙権の下へ行き、曹操との交戦と刘备阵営との同盟を说き、これに成功した。刘备・孙権の连合军は曹操军と长江流域で対决し、胜利した(赤壁の戦い)。
[编集] 入蜀
戦后、刘备たちは孙権・曹操の隙を冲いて荆州南部の四郡を占领した。诸葛亮は军师中郎将に任命され、四郡の内の三郡の统治に当たり、ここからの税収を军事に当てた。この顷、诸葛亮と并び称された庞统が刘备阵営に加わった。
211年、荆州の次に取る予定であった益州の刘璋より、五斗米道の张鲁から国を守って欲しいとの要请が来た。しかし、その使者の法正は张松と谋って、益州の支配を頼りない刘璋から刘备の手に渡す事を目论んでいた。刘备は初めこれを渋ったが、庞统の强い勧めもあり、益州を夺う决心をした。
刘备は、庞统・黄忠・法正らを连れて益州を攻撃した。诸葛亮は张飞・赵云らを连れて长江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、刘备と共に成都を包囲した。
214年に益州が平定されると、诸葛亮は军师将军・署左将军府事となる。刘备が外征に出る际には常に成都を守り、兵站を支えた。また、伊籍、法正、李厳、刘巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。
[编集] 夷陵の戦い
その后、刘备は曹操に胜って汉中を领有したが、荆州の留守をしていた関羽が吕蒙の策に杀され、荆州は孙権に夺われた。
刘备の养子の刘封が孟达・申仪の裏切りにより魏军に败走して成都に戻ってくると、刘备は刘封が関羽の援军に行かなかったことと、孟达の军楽队を没収したことを责めた。诸葛亮は刘封の刚勇さは刘备死后に制御しづらくなりそうだという理由から、この际に刘封を除くように进言した。刘备はその提案に従い、刘封を自杀させた。
220年には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に后汉の献帝より禅譲を受けて、魏を建てた。翌年、刘备はこれに対抗して成都で即位して蜀汉を建て、诸葛亮は丞相・录尚书事となった。
刘备が関羽の吊い合戦として呉へ进军を计画し、この戦いの准备段阶で张飞が部下に杀されるという事件が起こり、诸葛亮は张飞が就いていた司隷校尉を兼务する。この戦いは最初は上手く行って、途中孙権は领土の一部を返还して和睦を行おうとしたが、刘备はそれを闻かず、陆逊の作戦にはめられて大败に终わった(夷陵の戦い)。この戦いの后、诸葛亮は「ああ、法正が生きていれば、主君を谏めたであろう。彼が居れば、たとえ戦になっても、これ程の大败にはならなかった筈だ」と叹いた(法正は220年に死去している)。
刘备は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で223年に死去する。死去にあたり刘备は诸葛亮に対して「君才十倍曹丕、必能安国、终定大事。若嗣子可辅、辅之。如其不才、君可自取」(君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、终に大事を定めん。若し嗣子辅くべくんば、之を辅けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の十倍である。きっと国を安定させて、最终的に大事(=中国统一)を果たすだろう。もし后継ぎ(=刘禅)が补佐するに足りる人物であれば、补佐してくれ。もし、后継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。これに対し、诸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠贞之节、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠贞の节を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます)と答え、あくまでも刘禅を补佐する姿势を取った。
[编集] 北伐
223年、刘禅が帝位に即くと、诸葛亮は武郷侯・开府治事・益州牧になり、蜀の政治の全てを任されることになる。诸葛亮は呉に邓芝(邓は登におおざと)を派遣し、関羽の死によりこじれた関系を修复すると、魏に対する北伐を企図する。魏の侧は、诸葛亮が実権を握ったのを见て、华歆、王朗、陈羣、许芝、同族の诸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手纸を送りつけた。诸葛亮は返事を出さなかったが、のちに『正议』を発表し、彼らを批判した。
益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、诸葛亮は225年に益州南部四郡を征讨し平定した。この地方から得た财物で军资を捻出し、国を富ませたという。この时にいわゆる七纵七禽の故事があったともいわれるが、本伝には见えない(详しくは孟获の项を参照)。
227年、准备を调えた诸葛亮はいよいよ北伐を决行する。北伐にあたり上奏した『出师表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に违いない」(『文章规范』の评语)と称賛されている。「表」とは公表される上奏文のことである。
魏を攻める前に、诸葛亮はかつて蜀から魏へ降った新城郡太守の孟达を再び蜀阵営に引き込もうとした。孟达は魏に降った后、异常なまでに曹丕に宠爱されていたが、226年の曹丕の死后はそれまでの宠爱を失い、极めて危うい状况にあった。その情势を侦知していた诸葛亮は孟达に调略の手を伸ばし、孟达もこれに応じて魏に反乱を起こした。しかし蜀の援军が到着する前に、孟达は魏の司马懿に讨ち取られてしまった。
最初に踬いたものの诸葛亮の作戦は続行された。翌228年春に汉中より北へ进军し、一回目の北伐を开始した。この时魏延は、分队を率いて一気に长安を突き、その后に诸葛亮の本队と合流する作戦を提案したが、诸葛亮はこれを受け入れなかった。魏延はその后も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも诸葛亮により退けられている。
诸葛亮は宿将である赵云をおとりに使って曹真の裏をかくことに成功した。このため、魏の西方の领地である南安・天水・安定の三郡(いずれも现在の甘粛省に属する)が蜀に寝返った。
これに対し、魏は宿将の张郃を派遣した。诸葛亮は戦略上の要地である街亭の守备に、その才能を评価していた马谡を任命したが、马谡は诸葛亮の指示を无视して山上に布阵したため、张郃により山の下を包囲され、饮み水を确保できず撃破された。街亭の败北によって进军の拠点を失った蜀军は、全军撤退を余仪なくされる(街亭の戦い)。撤退时に诸葛亮は西県を制圧し千余家を蜀に移住させた。また、この戦いの时に魏の役人だった姜维が蜀军に降伏してきている。
撤退后、诸葛亮は马谡を処刑した(「泣いて马谡を斩る」の语源)。诸葛亮は自分自身も三阶级降格して丞相から右将军になったが、蜀を运営していける人材は他におらず、引き続き丞相の职务を执行した。
同年(228年)冬、诸葛亮は再び北伐を决行した。この时に上奏したとされるのが『后出师表』であるが、これは伪作说が有力である。二度目の北伐は曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食粮不足により撤退した。撤退时に追撃してきた王双を讨ち取った(陈仓の戦い)。
更に翌年(229年)春、第三次の北伐を决行する。武将の陈式に武都・阴平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、诸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陈式は无事に武都・阴平の二郡を平定した。この功绩により、再び丞相の地位に复帰する。
231年春2月、第四次の北伐を行い司马懿と対戦したが、长雨が続き、食粮输送が途绝えたことにより撤退する。この撤退の时に追撃してきた魏の张郃を伏兵を用いて射杀している。[1]食粮输送の一切を监督していた李平(李厳から改名)は、诸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰还したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と闻き返すなど、自らの失败をごまかそうとした。しかし诸葛亮は出征前后の手纸を出して李平の嘘を见破り、彼を庶民に落とした。
234年春2月、第五次、最后の北伐に出た。この戦いで诸葛亮は屯田を行い、持久戦の构えをとって五丈原で司马懿と长期に渡って対阵する。しかし、頼りにしていた呉が荆州と合肥方面の戦いにおいて魏に败れ、司马懿は大军を拥しながら防御に彻して诸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた诸葛亮は、秋8月23日、阵中に没した(五丈原の戦い)。享年54。
诸葛亮の死后、蜀军は全军退却することになったが、その途中で魏延と杨仪との间に争いが起こり、杨仪が胜って魏延は杀された。蜀军が引き扬げた后、阵地の迹を検分した司马懿は「天下奇才也」(天下の奇才なり)と惊叹した。
诸葛亮は、汉中の定军山に魏が见えるように葬られたという。遗言により质素な墓とされた。
诸葛亮が死去したという知らせを闻いた李厳(李平)は、「もうこれで(官职に)复帰できる望みは无くなった」と叹き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥夺された廖立も、彼の死を知るや、「私は结局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。李厳・廖立の両者は、いずれも失态を演じて诸葛亮によって平民に落とされたが、诸葛亮ならば罪があっても最终的には才能を评価して再び起用してくれると考えていたのである。このことから部下の诸葛亮への信頼の大きさが分かる。
刘禅は民众や异民族が诸葛亮の庙を作って祀りたい、もしくは成都に诸葛亮の庙を建立したいとの希望を一度は却下した。しかし、民众が胜手に庙を立てて密かに祀っているという事実と、习隆・向充の上奏を受けて、成都ではなく沔阳に庙を立てている。(『襄阳记』)
[编集] 评価
诸葛亮を评したものは、前述の司马懿のほか、『三国志』の撰者である陈寿による评、『三国志』に注をつけた裴松之の「诸葛亮が魏に仕えて能力を発挥していたら、陈羣や司马懿でも対抗できなかっただろう」、あるいは北宋の苏轼の「强大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『东坡全集』前集巻43「诸葛亮论」)や南宋の朱熹の「孟子以降の人物としては张良と诸葛亮がいるのみである」(『朱子语类』巻163・歴代3)等、数多い。
陈寿の评では「时代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも赏せざるはなく、どのように小さい悪でも罚せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか调べ、嘘伪りは歯牙にもかけなかった。みな诸葛亮を畏れつつも爱した。赏罚は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・萧何に匹敌する」と最大限の评価を与えている。しかしその一方で「毎年のように军队を动かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(临机応変な军略)が得意ではなかったからだろうか」とも书いており、政治家として有能であったと评しつつ、军人としての评価については慨叹するに留まり、やや言叶を浊した形になっている。また、『三国志』に収录されている『诸葛氏集目录』で陈寿らは「诸葛亮は军队の统治には优れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敌のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった」と评している。
陈寿の评について「彼の父が诸葛亮によって処罚されたため、评価を厳しくしたのだ」という说が『晋书』陈寿伝に载るが、信凭性は薄い(详しくは晋书の项を参照)[2]。
裴注所引の『袁子』は「诸葛亮は基本を守る人间で、状况の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状况の変化に対応する事)で无理をしなかったのである。不得手な点を知って无理をしない事こそ贤者の伟大なところである」と评している[3]。
また、西晋の司马炎は「(诸葛亮を)自分の补佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての诸葛亮を赏賛している(诸葛亮伝・裴注所引『汉晋春秋』)。一方、北魏の崔浩は「曹氏と天下を争う事もできず刘璋から国を夺い辺境で皇帝を僭称させた」と极めて辛口の评を述べている(『魏书』毛修之伝)。
刘璋が支配していた益州を夺ったことに関しては、苏轼は「刘璋をだまし讨ちにし、荆州に连れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が无い。刘备と曹操では才能・兵力・领土に大きな差があり、忠信の心のみが胜っていた。(刘璋をだまし讨ちにして)これを失ってから北伐の大义と唱えても上手く行くはずが无い」と述べている(前掲「诸葛亮论」)。
これに対し、明代の学者・王世贞は、刘璋を讨つ事を刘备に勧めたのは诸葛亮ではなく庞统・法正である事、また刘焉は汉朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる刘璋を讨つ事は正当化される事などを理由として反论している(『読书后』巻2「书苏子瞻诸葛亮论后」)。
[编集] 『三国志演义』中の诸葛亮
『三国志演义』の本文中で、その名前を字で记载されているのは玄徳(刘备)と孔明(诸葛亮)のみである。この他に関羽も字あるいは「関公」と呼んで敬意を表しているが、これは演义が成立した时点で関羽は神格化されており、讳を记述することが惮られたためと思われる。ここから、刘备と诸葛亮がこの物语の主人公であると暗に示されている。特に诸葛亮の场合は『三国志演义』后半の主人公と言われる。
『三国志演义』の成立は明初と考えられているが、その前身である讲谈などの民众文化は北宋代から広がっていったと考えられる。それらのなかで孔明は、纶巾を戴き羽扇を手にして四轮车に乗り、鬼神や天候をも操り、敌の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている(ただそのせいで诸葛亮は半ば仙人のようになってしまい、军略の不足を仙术で补うという军师らしからぬ存在になった)。以下、诸葛亮の事迹に関して、『三国志』と『演义』との主な相违点を挙げる。
『演义』では曹操が南下をもくろみ、夏侯敦に十万の兵を付けて派遣するが、诸葛亮の作戦でこれに大胜した、またこの时に関羽と张飞が诸葛亮に対し反抗したが、孙武の策を使い従わせた、となっているが、実际にはこの戦いは诸葛亮が刘备军に参加する前の话である。
赤壁の戦いに於いて、前述の通り诸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演义』に於いては、この戦いの主人公は诸葛亮である。
非戦论に倾いていた孙権・周瑜を说得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主张していた)。
戦いが始まってから周瑜は诸葛亮の才能を恐れるようになり、诸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う无理难题を突きつけて杀そうとしたが、诸葛亮は雾の出た夜に曹操军に夜袭を仕挂け、曹操军が放った矢を卤获して帰った(裴松之注に见られる孙権の逸话を利用したもの)。
曹操军を火攻めにすると决まったものの北西の风しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分达に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで诸葛亮は坛を筑いて祈祷し、东南の风を吹かせ、曹操军を焼き讨ちにしたことになっている。
赤壁以后の荆州争夺戦に於いて、周瑜は曹操の残党军を攻めてこれを打ち破るが、诸葛亮はこの隙を突いて曹操军の城を占领し、诸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その后、周瑜は蜀を取るからと伪って荆州に入り、隙を突いて荆州を占领しようと図ったが、全て诸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮!?」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ诸葛亮をも生んだのだ!?)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。
北伐で马谡の失策により蜀军が総崩れで败北し、魏军の追っ手の司马懿らを目の前に诸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の计」を使い、城壁の裏に大军がいると勘违いした司马懿が诸葛亮を恐れて撤退した。これも『演义』の创作である。
『演义』では北伐中、诸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司马懿を谷に诱い込んで魏延共々焼き杀そうとしたが、雨が降ったことで失败する。その后の最后の北伐に於いて、病状が悪化した诸葛亮は幕内に祭坛を筑いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭坛を壊してしまったために祈祷に失败し、死去した。诸葛亮の死の时に大きな流星があり、司马懿はこれを见て诸葛亮の死んだ事を悟り、蜀军に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀军には诸葛亮の姿があり、これに狼狈した司马懿は慌てて引き上げる。だが実はこの诸葛亮は木像であった。后に现地の人间は「死诸葛吓走活仲达」(死せる孔明、生ける仲达(司马懿の字)を走らす)と言ったという(この台词は裴注に引く『汉晋春秋』に见えるが、木像に狼狈したというのは演义の创作である)。
その清廉洁白さに対する民众の期待や弱小な王朝に対する判官びいき的心情が混ざって、このような人间として描写する原动力となったのであろうと考えられる。また、『三国』说话の成立时期(北宋期あるいは明初)から考えて、王朝に忠なる臣の理想像として过剰に持ち上げられた人物との评もある。